私の目玉の寿命を、この研究所長の笑顔のためにKoko Coco MIYAMOTO (事務局長)

人は、同じものを見ても、同じように美しいとは思わないことがある。

乳幼児にとっての喜びは、抱っことおっぱいのぬくもりだろう。 幼児は、頭をなでられることや、チョコレートの甘さに心がほどける。 やがて、先生からもらう花丸や、友だちと競って手にする一等賞が、誇らしく輝くようになる。霜柱のきらめきや雪だるまに心を躍らせ、 桜に立ち止まり、紅葉に季節の深まりを知るようになる。

更に大きくなると、『吾輩は猫である』のユーモアに潜む辛辣に笑い、『不毛地帯』に、峻厳な重さを見る。 『金閣寺』の苛烈な美や、『平等院鳳凰堂』の静寂に、 時間の積み重なりを感じるようになる。

『純粋理性批判』に鼓動を速くし、アルベール・カミュや阿刀田高の言葉に、膝を打つ。 社会に出てからは、満月や薔薇の花束にふと足を止め、 いつしか、星の見えない夜空や、冬の落葉樹、水紋の佇まいに、時の「流れ」や「森羅万象」の理を感じるようになる。

さらに大人になったのかもしれない今、 砂や岩、石、道端の落ち葉、ただそこにある一輪の花と対話するかのような錯覚を感じる瞬間がある。

花は、芽が出るまでの「見えない時間」があり、咲くときは一瞬で、やがて音もなく散る。 その一瞬のために、土を整え、水をやり、手をかけ続ける人がいる。

思い返せば、色んなことがあった。

ネットワークが「トークンリング」だった時代、英文が纏うニュンスを大きく間違え、当所長に恐ろしいメールを送ったことがあった。 廊下を足早に移動していらした先生は、私に「僕、何かあなたに失礼なことをしたかな」。誤解が解けたあと、先生は「驚いたよぉ」と笑顔でおっしゃってくださった。あの時のユーモアと機微と誠実さは、北極星だった。

お部屋に一輪

別のあるとき、私の不手際ではないものの、予算が行き詰まり、途方に暮れたことがあった。 窮地を救ってくださった先生は、翌年、「まぁ、いいよ。返さなくても」 と、軽やかに流された。その徳の高さ、器の大きさ、ただただ嬉しかった。

ほとんど全ての事柄は、すぐに見える形にはならない。 物も事も、時間という名の篩いにかけられる。人との関係性は、落ち着くところに落ち着く。

人と園芸、似ている。すぐに結果が出るわけではない。目に見えない時間を相棒に、手をかけ続ける。 積み重ねの先に、花が咲く日がある。

玄関に、食卓に、キッチンの片隅に、百合、芍薬、牡丹、桜……。 一輪でも、一本でも、そこに居るだけで、有るだけで、心が軽くなり、少し温かくなる。

この「小さな研究所」が、誰かにとっての「土を整える場所」になると、いいなと思います。